「考え直してほしい「2分の1成人式」という記事を、友人がFacebookで教えてくれた。
「しばしば親への感謝が強制される」この手のイベントのことを、立ち止まって考えている。
良い記事だ、と思った。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/ryouchida/20150119-00042352/
先日、2年生のムスメが通う小学校で、校外学習のお手伝いに参加した。
「先生の同伴なく、こどもたちだけの班で、電車に乗って公園へ行く。つきましては、迷子になりそうな子がいたら声かけてください」という、まるで「ライ麦畑のキャッチャー」的な役割が、楽しそうだったからだ。
実際、すごく楽しかった。
それから数日後、ぜんぜん知らないこどもたちからの「ありがとうございました。みなさんにみまもってもらって、成長しました」的な手紙が届いた。
どう考えても、書かされている。この小学校の2年生で、私が知っている子なんて、10人もいない。
これを書かされるこどもがすごくかわいそう、と思った。
被災地のこどもたちも、よく、「感謝の手紙」を書かされる。
ひどいと思う。
自分が望んでいないものを与えられ(たとえばそれがさ、絵本劇でも、折り鶴一万羽でも)、それが「いい話だ」という、大人の社会のフィクションの「道具」として役立つことを強制される。
善意でも迷惑なこともある。っていうか、よくある。
もちろん、善意は受け取ってもいい。でも感謝は、個々人がそれぞれのタイミングで、すればいい。
社会的な教化的な意味合いをどうしてももたせたいのなら、先生がみんなに意図を説明し、学校の代表にお礼の手紙を書かせ(児童会長はそのようなソーシャルな部分を受け持つためにいるんだよね)、そのうえで、書きたい子は書けばいい。
絵本劇でも折り鶴でも、心に響くことはあるだろう。
でもどうして全員が、感謝の言葉と、それによる自分の成長をまで、「大人」や「社会」が満足する言葉で書かなければならないのか。
これでは心と言葉が、ますます乖離してしまう。
2分の1成人式は、さらに、おそろしい。
なんなれば、親への感謝を表現しなければならないからだ。
親がこどもを養育するのは、当たり前ではないか。
こどもからの感謝の言葉がほしくて育てている親も、まあ、いるのかもしれないけれど。
こどもとそりがあわなくても、親が自分のことでパツパツでも、「家族」だから仕方なく、ごはんもつくれば、洗濯もする。
そして、そんなめいっぱいの一日が終わり、ふと見たこどもの寝顔の、ぷっくりした頬や、長くカールしたまつげに、しみじみ「ああ、やっぱり幸せ……」と思う。
そんなもんだ。私の場合だけかもしれないけど。
親は、恨まれるくらいでちょうど良い。
親への感謝は、自分が親になったときに、はじめてハッと思い当たるくらいで良い。
親からの恩は、返せるものではない。
返すならむしろ、次の世代に、だ。
与えてくれたひとに等価のギフトを返す。そこからはなにも生まれない。
次のひとにパスすることで、「贈与」は人間をつないで行く。
送り手に、返させるな。
しかも、勝手に送りつけられる、「恩」に、無理やり感謝の言葉を言わせるな。
っていうかさ、10歳って、立派な反抗期の時期ですよ。
もしもここで親への感謝のきもちを書きよどむ子がいたら、おばちゃんは全力で、「あんた、まともだよ」と言う。
とりあえず学校行事だからと、表面的な言葉をサラサラ書いてしまうより、よっぽど良い。
私が、言葉と心の乖離で、だいぶ悩んできたから。
がんばれ、こども。
しかし、こどもをとりまく環境が、どんどん風通し悪く、逃げ場がなく、なっているなあ。
こんにちは、いつもうんうんとうなづきながら読んでいます。
私も「けっしゃらくせえ」と思っていたくちです。
(まあ、もらったお手紙はうれしく、とってありますが。)
ちなみに、今子どもの通っている小学校では
「あいさつ運動」をしておりまして、
こどもたちが近所の方々にアンケートを配り、
「私たちのあいさつがどのくらいきちんとできているか、
近所の方々、どうぞ評価してください」
などと言わされております。
気味が悪いことこの上ありません。
家ではせいぜいこの運動の気持ちわるさについて、
盛大にくさすことにしております。
道行く小学生が口を揃えて元気にあいさつしてきたら気味が悪いと思わないのか!?
地域の絆って、そういうことじゃないですよね。
ありがとうございます。
「本来パーソナルなことを集団でさせる危うさ」について、私たちがいまいるこの社会、もちっと自覚的でいいかなあと思いますね~。
カウンターとして、「社会の暴力からこどもを守る家庭」で、あり続けましょう! おー!!
湯川さんの考え方には共感する事が多く、いつも興味深く拝読しています。
小学校関係者として「お礼の手紙」についての考えをひとこと言わせて下さいね。
教育委員会からの指令で、無理矢理書かせるお礼状、確かにあります。(震災関連行事に)
無理矢理書かせる励ましの手紙とか。(神戸マラソンの選手に)
もし神戸サミット開催ならまた・・・。
健気に、苦しみながら書く子ども達が本当に、本当に可哀想。
やめてくれ〜〜〜と言いたい気持ちわかります!!
ですが、「小さな旅」の2年生の子どもは心の底から感謝しています!
彼らは不安でいっぱいで、
ボランティアのママさんの姿を見るだけで安心し勇気をもらいます。
知らないおばちゃんだけど、
いざというときはきっと味方になってくれる心強い存在です。
忙しいのに、僕らの為に来てくれてホントに嬉しかったよって本気で思っています。
勿論、中には
「自分で行けるのに、おせっかいなおばちゃん」
と思う子もいるかも・・・。
2年生の担任として「小さな旅」を2回経験しましたが、ハラハラのし通しでした。
・乗り過ごしたグループ。
・切符をなくした子。
・お金をなくして切符を買えなかった子。
・一人だけが迷子になって大騒ぎしたグループ。
無事に到着したとき、緊張していた表情が緩んで可愛い笑顔に変わります。
わずか7歳8歳の、家庭に守られ、実体験の少ない子ども達。
電車に乗るのが初めての子どもも多いのです。
切符を買うのも、駅の様々な表示を見るのも、知らない街に行く事も
大人が想像する以上に不安でいっぱいです。
ボランティアのお母さんのおかげでどんなに心丈夫だったことか。
だから知らない子どもさんからのお礼状、ほとんどが真実です。
多分一番感謝しているのは2年生の担任と、管理職のお二人だと思います。
ありがとうございます!
メッセージをいただいた4人のうち、実際にひとりは知っている子で、面と向かってもお礼の言葉をちょうだいしました~。
そういう視点もありがたく、再確認します!
こんにちは。 最近何となく感じてたモヤモヤな感じ、まさしくビンゴです。
子供って、親に生んでくださいとお願いして生まれてきたわけではないですよね。彼らにしたら
気づいたらここにいたのに、しかも自分で親を選べたわけでもないのに、生んであげたから
感謝しなさい、っていうのは親もしくは周りの大人の自己肯定感を満たすだけの行為ではないの
かな、と思うんです。私自身が、母親の自己肯定感の為に、世間的な”いい御嬢さん”でいること
を求められて育てられてきた経緯があるので、こういうこと、すごく息苦しく感じるんですよね。
(それは39歳の今でも、時折心を蝕まれることがあります・・・)
自分の息子たちに、”生んでくれてありがとう”と言われたら、”そんなこと思わんでもよろし、君たち
こそ生まれてきてくれてありがとね”と言うつもりです。もうすぐ10歳になる長男には、いまだ言われ
てないので、一般的な男子として健全に成長してると思ってます(笑)。
「こどもを育てるのは当たり前のこと」っていう視点が、すっぽり抜け落ちている気がするんですよね~。
感謝なんてほんと、「そんなこと思わんでよろし」ですし、こどもにこそ感謝したいと、私も思います。