「発達障害」という新しい「病気」は、どこから来たのか。社会のうつりかわりと、人間のうつりかわりを、石川憲彦さんは、静かに、熱く、語ります。
湯川: 今回は「発達障害」をひとつのテーマとしたのですが、この言葉、いったいどこから出てきたのでしょう?
大きな流れで農業社会から、産業革命を経て工業社会になったというのは、まあ争いないところですね。
そしていまポスト工業化社会といわれてますが、本当にそうかなと思うんです。
ノーベル賞を見るとわかりますが、文系の文学賞、平和賞、経済学賞。これはわれわれ人間社会のルールです。
あとの物理学賞、化学賞、医学・生理学賞は、自然科学の分野ですね。
それぞれ語源をみると、物理「Physics」の「physi-」は「自然」で、これは医学・生理学賞「Physiology or Medicine」にも含まれています。一方で、化学「chemistry」の語源は、「錬金術」。
物理的な法則は、生物が出てくる前から宇宙を支配しています。いわば自然の摂理で、人間が作り出すのは難しい。人間はそれを真似しながら、機械を作ってきたわけです。
産業革命以降の工業化社会は、どちらかというと、こうして物理的(フィジカル)に作った機械に主導されるかたちでやってきました。
それに対して、化学(ケミカル)は、語源が「錬金術」であるように、やってみなけりゃわからないという側面がある。混ぜると何が起こるか分からないという、ある意味、投機的な、あいまいなもの。あるいは魔術・魔法的なものと言ってもいいかもしれません。
「 ケミカルにフィーリングが合う 」
今日的な意味での「ケミカル」という言葉を初めて聞いたのは、90年代のアメリカでした。音楽家の友人が、「ケミカルにフィーリングが合うからうまくいく」と言っていて。「化学反応をするように」という意味ですよね。
化学反応ですから、実際にやってみないとわからない。本当のところは論理があるんだけど、その論理を、少なくとも我々は「魔術」と考えた。そんな「ケミカル」です。
初期の工業社会では物理的に、一律一斉に大量生産をしてきました。それが、 やがて同じ製品でも、なんとなく見かけが良かったり、フィーリングが良かったりという工夫を凝らすようになる。こうなると「化学」ですよね。 現在はもう、物理的な工業化社会は終わっています。
『反転する福祉国家』という本で詳しい分析がなされているんですが、いまオランダなどヨーロッパでは、移民の排撃が続いています。
移民排撃の理由として、よく移民の増加が言われるんですが、それは違う、というんですね。ヨーロッパは依然として労働力を必要としている。ただ、生産様式が変わったのだ、と。
機械で物を作っていく時代は、タフで力があって頭が良ければよかった。移民も「同じ労働力」だから。
しかし現在のように付加価値が求められる時代になると、求められるのはセンス、感覚、フィーリング。これを作るには、文化的に共感できる「同質性」が必要となります。
同質性というのは、言い換えれば共有の文化ね。これをもつ女性、老人、そして知的な障害がないなど一部の障害者の労働参加は、これらの福祉国家では、むしろ深まる。
一方で、異なる宗教や異なる文化をもっていると、まさに、「ケミカルなフィーリング」が合わないとして、疎外され、排撃される。
このように、ケミカルな同質性を求めるのが、ナショナリズムです。いま、そういうふうに時代が動いていて、それが先進国と言われるところで強まっている。
「 移民、外国人、異人 」
湯川: 社会の変化、求める人間像の変化につれて、「障害」概念が変化していますよね。
まったくその通りだと思います。物理的な社会では、差別も物理的で、理由も図式化できる。身体が不自由な人間は下位に置いていく、というように。
一方、いまのようなケミカルな社会でのいじめなんかを見ていくと、フィーリングでしょう? 感覚の差。
湯川: だから、「誰がいじめられるかわからない、誰もがいじめられるターゲットに」という状況になるのですね。いじめに限らず、マスコミのバッシングなどのやり方も、似たものを感じます。最近になって発達障害の概念が浮上したのも、同じ流れからでしょうか。
広汎性発達障害のみっつの特徴がありますでしょう。
・コミュニケーションが稚拙
・社交性が欠如している
・イマジネーションが非常に狭くて独特
つまり、同じ文化を共有するイマジネーションが低くて、しかもその低さをうまくカバーするコミュニケーションツールももたず、さらに同質的集団に入らない。これはまさに移民であり、外国人、異国人ということですよね。
どこでも、経済力が落ちて内政が悪くなれば外へ目を転じて敵を作るということはあったんだけど、いまや自分たちの内にも敵を見いだして作っていこうとしているかもしれないね。
ナチスドイツがそうでしょう?
ある有名な牧師さんが言っています。
最初にナチスは共産党を弾圧した。そのとき、我々は対象が共産党だから当然だと思った。
次に、社会主義者を弾圧する。少し疑問を感じたが、あれは社会主義者だからだと考えた。
その後、リベラルな教会が対象になったとき初めて、弾圧が何だったかということに我々は気づいた。
湯川: 「社会集団の内に敵を見いだして排除していくこと」、ということでしょうか。そして弾圧の対象には、その社会集団の一員である自分も、いつでも恣意的に含まれうる、と。
自分たちと違うものが弾圧されるときは気づかなかったんだよね。でも、本質は、やがて拡がっていくわけ。
近代国家がもうイデオロギーを物理的に区切って押し付けることができなくなって、ケミカルなものを導入してきた。そこが「同質性」だと思います。
「 『良いもの探し』の罠 」
ナチスの話でいうと、初期のスローガンに、「きれいな空気・良い環境・おいしい水」というのがあります。ある意味で、まさにエコロジーだった。これって、純血主義と関係があるよね。
自然を大事にしていこうというエコロジーの拡がりが、ひとつ間違うと、自然食運動風の、すごく偏狭なかんじに行ってしまうでしょう。ナチスの場合も、そうやって進んでいったんです。
湯川:難しいですね。そういう「一見良いことだけど、実はとても危ないこと」は、どうやって見分けたら良いのでしょう。
それが美化された「自然」や「生きる」ではないか、ということでしょうね。
実際に生き物が命を獲得していったような自然は、相当に、「きれい」でも「良い」でもないはずです。生命力というのは、本来、環境がどうであれ、与えられたものがどうであれ、「生きて」いくもの。良いか悪いかは別に再生していく、それが生き物であること、これだけは間違いない。
ところが、「良いもの」を求めて流れていくと、生命力はなくなっていくのよ。
「良いもの探し」をすると、我々は常に、「ケミカル」が分ける、非常に特定のものに吸収されていってしまう。「美化された自然」の方ね。
湯川:あ、私自身を振り返ってみても、娘にどこか「権力的」に振る舞うときって、「ちょっとしたナチス」になっているように思います。目の前の娘のごちゃごちゃした命とゆっくり向き合うより、「早寝、早起き、健康な食事」など「誰かが言っていた『より良い』」キーワードで思考停止ししちゃって。たしかに、そんなときは息苦しいですね。
権力というのはやはり人間に存在していて、その「権力的なもの」は、ケミカルな同質性を非常にうまく利用しながらすり抜けていきます。
「区別」というのは、基本的には「外す力」が働くから起こる。それが、ナショナリズムを作る力です。
ケミカルなフィーリングでなにかをまとめようとして、合わないものは外していく。そんな社会のケミカルな同質性が、いまはどんどん高まっている。
これまでは、そうは言っても、社会にまだ豊かさがあり、違うものを認める余裕がありました。しかし、これがどんどん狭くなってきたら、非常に生きづらくなります。
こどもの教育でも同じことです。
いまの特別支援教育は、生命力の中へ置いていくのではなく、こどもを分断して囲い込んでいくという方向でしか見えません。 でも、良さそうな言葉を言われて乗っていくと、その先では「生きる」が非常に貧しいものになってている。
相変わらずの拡大主義の延長か、それ以外で我々が考える時代が来るのかが問われる時代に来ているんだと思うんです。 私なんかは、いまはケミストリーという怪しげな同質性とは違うものを見つけ出していく過渡期だと思って、楽しみに見ているんですけどね。
※12/6(土) 14:30~ 石川憲彦先生とお話会
「こどもとの時間が楽しくなる3つのヒント」
イヤイヤ期、反抗期、思春期。登校拒否、発達障害、引きこもり……。
「こどもといるのがしんどい」と思うとき、こどもだって「親といるのがしんどい」と思っているかもしれません。
児童精神科医の石川憲彦さんは、生きづらさを抱えるこどもたちと向かいあって40年。
そこから見えてきた、親子の関係をつなぎなおす3つのヒントとは。
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