翌日、『こんな学童』に、仮の名前をつけました。
『リベルタ学舎』
学舎はまなびや、寺子屋のようなイメージです。そしてリベルタはLibertad、スペイン語で「自由」を意味します。
2012年の夏の終わり。十年ぶりの日本に帰国して、丸3年が経とうとしていた。
人生初の関西、拠点は神戸。なぜなら、海と山があったから。だから、「ヒト」しか見えない暑苦しい大阪は、とても苦手。
だいたい、地名からして、「うめだ」だ。”humedad“(ウメダー)=スペイン語で「湿気」。いじ暑苦しかたい?
そんな大阪の、南港というところに、その日は初めて着陸。相愛大学で、内田樹さんの特別講義を聴くために。
もともと著書『寝ながら学べる構造主義』で大ファンだった内田樹さんとは、スペイン移民生活中の2005年、私がオルテガ=イ=ガセーの母校で思想史の授業をとったのをきっかけに、面識ないままブログの「長屋」に入れていただくという、有難くももったいないご縁を頂戴。
「湯川カナの、今夜も夜霧がエスパーニャ」
その後、たまたま神戸に帰国したので、5年後「晴れて」というかんじで、合気道(と麻雀)に入門させていただいた。
こうして間近で学んで、あらためてそのことばと実践のすべてが「素敵」と思う、唯一無二の「師」。内田先生の話が聴けちゃうなら、たとい苦手な大阪ばってんが、行かずんばあらずったい。
で、とても暑かったその日に、頭がぽーとしていて内容はよく覚えていないけれど、内田先生の講義を聴いているうちともかく、「こんな学童をつくりたい!」と思いついた……らしい。えらく興奮したまま、ブログに書いてます。
学問の分野に、「リベラル・アーツ」ということばがあります。この「リベラル」は、「ひとを自由にする」という意味だそうです。それを学ぶことで奴隷ではなく自由人となる教養。
「リベルタ学舎」では、めまぐるしく変わりゆく政治や経済や社会の「奴隷」となるための勉強ではなく、マニュアルなき時代を「自由人」として感度良く、人間性豊かに、朗らかに生き延びていくための学びの場を作りたいと思います。
2013年4月、神戸に開校する、こどもを対象とする「学びの場」。仮称「リベルタ学舎」。
いまのところ、決まっているのはそれだけです。これから全力で、準備を進めます!「開講宣言!」
http://d.hatena.ne.jp/ninacomoda/20120903/1346632966
OH! ワラ慌てん坊!
30代のコムスメである(おばさんですが)。しかもカネもコネもなければ、綿密な事業計画も敏腕マネージャーも紫のバラのひとも、ブラジルの広大な農園をその死に臨んで日本の姪っ子に託す叔父さんも、いない。
情熱、だけ。
付け加えるなら、あと、勝手に感じている社会的責務。それだけ。
振り返れば、会長やら副会長やら総代やらばかりをしてきた学生時代。
いつだっておっちょこちょいの私は立候補し、なんだか必死で選挙活動をして、そのポジションに就いてきた。
悲しいカナ哉、誰かに「カナちゃんが良いと思いまーす」と他薦された記憶はない。
ときはバブル前夜の80年代。「頑張るのは格好悪い」というムードが、長崎の片田舎のハナタレ学校にも蔓延していた。そこで私は敢然とひとり立ち上がり、モーレツに熱く「髪型自由化」や「靴下自由化」を訴えてきた。
大学に入り、ついたあだ名が「遅れてきた全共闘」。
ああ。また、やっちゃったごた。
ホゾでもあれば噛みたかぐらい、泣くごた思い。
……と思ったけど、今度はちょっとちがった。
「開校宣言」を私は、SNSで紹介した。すると、「応援してます!」「必要だと思います!」「頑張ってくださいね!」……驚くほどたくさんの反応があった。ほんとうにびっくりした。ほんとうに、うれしかった。
それまで私は、自分は他のひとと違うことをしているから、(あるとすれば)なにがしかの価値があるのだろうと思っていた。
でも、このとき初めて、自分はみんなと同じことを(うっかり前のめりで)やるから応援してもらえる、「同じ」だからこそ支えてもらえるのだと、とても温かなきもちで感じた。
「みなさんの声援に後押しされて」
デビュー戦、代打でまわってきた延長の裏、2アウト2塁で思いっきり初球を叩いたら内野手のエラーを誘ってプロ初打席がサヨナラヒット……なんてのが現実にあるかどうかはともかく、そんな選手が頬を紅潮させてヒーローインタビューで語る、そんなうっとり気分だった。
「リベルタ学舎」は、必要とされている(かもしれない)。
私は、必要とされている(かもしれない)
ワーイ! 学校、つくろう!!
ホカホカの頭で、私は考えた。
えっと、学校をつくるのに、なにが必要?
……そうだ、先生!
まず開校宣言したリベルタ学舎は、続けて、先生探しにはいる。
(つづく)