「韓氏意拳」という中国武術がある。陽明学と深い関係をもつという。
武術ではあるが、誰かと組んで稽古をしない。勝敗もない。
個々人が自分の内側を見つめる、ゆっくりとした動き。イメージでいうなら、太極拳に近い。
光岡英稔さんは、日本韓氏意拳学会の会長をつとめる方。たしか内田樹先生が、「人類最強」と評されていたと記憶する。
これまで何度も凱風館などで光岡先生の講習を受けるチャンスがあったのだけど、なぜかいつも「まだ私には早い」と思っていた。
今回、あるひとに、「光岡先生にいま会ってみてください」と言われた。
ピンと来たので、行ってみました。
結論から言うと、いや、すごかった!
「いま」だから腑に落ちることが、たっくさんありました。
以下、当日のメモを、箇条書きで。
<「意識」と「感覚」について>
・近代とは、精神が肉体をコントロールしようとしてきた時代。そのときの「精神」とは、脳による「意識」。つまり、つくろうとしていたのは「意識体」。
一方で、感覚は、リアリティある「からだ」のもの。「からだ」という本体にアクセスするのが、「感覚体」。自分の内側にたいする注目や集中。
・「意識」が働くためには、対象が「具体的」かつ「停止」していることを必要とする。
しかし生命は、(心臓も地球も太陽も)常流・転変で、本来的には「意識」の対象となりようがない。状態を「感覚」で捉えた、と思うと、またすり抜けていく、それが生命。
<自分を知る方法>
・外からの力に対して、動物は本能で反射的に動く。
一方で人間は、外からの力を「用いて」、自分のことを知ることに使うことができる。自省自知。それが人間のみができる「生命への自覚」をもたらす。
・自らの「行動」や「動作」にとらわれると、意識レベルで集中してしまう。「うまくやろう」としてしまう。意識体はコントロールできるので。
しかし、「心臓をうまく動かす」「血をうまく流す」などは意識してできるものではない。「状態」を観察する。感じる。「からだ」という本を読み、その語りを聴く。
・間違っても「韓氏意拳」を感じるのでもない。「型」をうまくしようとすると技術論になってしまう。「型」は、行動を自動化しておき、状況を感じやすくするためにあるもの。
すべては「~を通じて、自分をどう感じるか」である。
・「状態」を感じようとして、意識にのぼってきたところは詰まりがあって停止しているところ。つまり問題提起をしてくれているところなので、待ってあげる。受動的で良い。待っていれば、問題は解決する。そうしたら今度は、意識にのぼらないところへ注目をしていく。
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いまの私にはもう、ほとんど、組織論というか、人生論というか。
いちいち「はーっ、なるほど、そういうことだったか!」と、頭で納得し、身体で腑に落ちました。
なんせ、言語優先のひとですから(そういえば内田先生にも、対談で、だいぶ叱られてましたね~)
講習後、めちゃ美味しいおうどんを一緒にいただきつつ光岡先生とさせていただいたお話が、またすごかった。
メインは、言語論。ハワイのピジン語の話をきっかけに、私が言語構造について長年の疑問を「いまだ!」とぶつけさせていただくと、ソシュールからサピア、チョムスキーまでそれぞれの考えの基本と分類、それにたいする光岡先生の具体的な知見にもとづく推論を、私にもわかるレベルで、惜しみなくしてくださいました。
すごかったなあ。知性とはこういうことかと思いました。
そして、まあ生きる死ぬのフロントラインのことをよく知る光岡先生ならではの、完全オフレコ話。ひとつだけこの日に出てきたキーワードを書いておきます。
「予測は命取り」
ゾクッときますね。
さあ、今日から「感じる」生き方、やっていこう♪ (←おっとすぐ「行動」に集中しちゃうクセが…)