18歳年下の姪っ子から届いた読書感想分が、じーん。

「ソーフードドリア!」と言っていた小学校2年生のぽっちゃりした女の子が、いま大学の修士一年生。
私が10年外国に行っているあいだに、こんなに成長していたのだなあ、というのもふくめて、すごく興味深く読みました。
本人の許可を得て、転載します。

あ、姪っ子だけど、「お姉ちゃん」と呼んでもらっています。
ワカメちゃん的ポジションですね。

 

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カナお姉ちゃん

 

久しぶりですーMです。

昨日カナお姉ちゃんの本(「他力資本主義」宣言)を買ってきて、とっても面白く読ませていただきました。

 

読んでいて思い出したのは、新約聖書の「隣人を、自分のように愛しなさい」という言葉。

他者と自分の関係性については、いろんな思想家の言葉が多々あるけれど、中高でこの言葉を教えられたときには、なかなか難しいことを言うなーと思っていました。だって、隣人を愛するのは簡単だけど、「自分のように」愛することは私にとっては難しかったから。

 

自分ってなかなか隣人みたいには愛せなくない?(笑)
少なくとも隣人と自分とでは愛し方が異なってしまう。

カナお姉ちゃんが昔、他人の力を借りるのが苦手で、自分に対して雁字搦めになっていたのと似てるのかなー(上からみたいで偉そうだけど・・・)と思いました。
だから、この「他力資本主義」っていうのは、「隣人を自分のように愛する」ことの解釈のひとつにもなるんじゃないかと、勝手に納得しちゃいました。

他人を愛して助けるのはもちろん、自分も愛して他人に助けられちゃえばいいじゃん、みたいな。
お互いさま、楽しくやろうぜ、と。

 

対談を通して感じた内田先生の考え方、人間は感覚的な、フィーリングのジャッジを大切にすべき、無理に理屈をこねる必要は無い、という主張(あってますか・・・?)は、私も痛感しているところです。

フィーリングで決めた(最初から決まっているように感じた)ことは、やっぱり後々考えても正しかったことがほとんど(中学入試の学校選び、部活選び、大学選び、などなど・・・)。

逆にガチガチの頭で考えたことは、そのうち歪が出てくる(研究室選びは、頭で考えて、散々友人たちに反対されながら決めて、激務すぎて身体を壊しました・・・)(でも自分が成長できる場所だと思ったのは間違いなかったから、後悔はしてないんだけど・・・)。

人間も社会も、生き物ですね。
生物はやっぱり元来感覚的に出来ていて、望むままに流れるままに生きるのがいいのかも、なんて思っているところです。

 

 

あともうひとつ思い出したのは、和辻哲郎の言葉「人間は間柄的存在である」。

倫理の授業でちょっと習っただけだから思想的に合ってるか分からないけど、「個人」と「社会のなかの個人」があって初めて「自分」がある、という意味だったような・・・。

社会や共同体を必要とするのは、人間が人間であるために必要なことで、願わくばその社会や共同体が楽しくのびのびと自由なものであってほしい。

 

私は中高でわりと自由な学校だったので、のびのびと思春期を生きられました。
大学でも、カフェやスイーツのことできゃっきゃしながらはしゃげる友達や、真剣に将来のことや人間のことを語り合える大切な友達に出会えて、とてもラッキーだと思います(ここらへんは、内田先生とカナお姉ちゃんの対談の後編を読みながら思いました)。

私は私、あなたはあなたの考え方があって、お互いに意見を言えて、交換し合える。それが嬉しいし、楽しい。
私が困っていたら彼らは見返りなんか求めずに手を差し伸べてくれるだろうし、逆もまた然りです。

彼らとの関係性があるから、私は他者に手を差し伸べられ、差し伸べられた手を取れる人間になったと思います。
だから、そういうのびのびとした共同体、「場」を提供しようとしているカナお姉ちゃんを、心の底から応援しています。

 

応援するだけで今私はなにもできないけど、カナお姉ちゃんが楽しく自由にやりたいことがやれますように。

なんだか偉そうで長々とした感想文になってしまってごめんなさい・・・。
久しくカナお姉ちゃんに会ってないので、いつか会える機会があったら嬉しいです。

 

 

和辻哲郎の言葉「人間は間柄的存在である」を思い出した-「タラちゃん」からの読書感想文

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