人間の生きる力を徹底的に信じる。ひろびろとした世界観・人間観をもつ石川憲彦さんインタビュー、ついに最終回です!

 

石川憲彦さん

 

 

「 こどもは なにかしら見つけていく 」

 

湯川: クリニックには、親子で訪れることがほとんどかと思います。親はこどもの「治療」を願っていて、でもこども本人は、とくに小さい子など、ひょっとするとなぜ病院に行くのかもわかっていないかもしれないですよね。

 

困っているひとを診るのが医療です。そしてほとんどの場合、困っているのは親なのね。
ですから、医者として診るのは実は親の方というのがほとんどです。

そりゃ、こどもで本当に落ち込んでいる子も来ますよ、いまは残念ながらね。
でも、こどもはなんだかんだ別の手をもっていて、なにかしら見つけていく。大人の方が遅いですよね、そういうのを見つけられるのが。

 

こどもの方は、自分がやっていることを、ある程度、認めてもらえれば、なんとかいくわけです。

もっとも、嘘の認め方っていうのは、まずいけどね。
よく言われる発達障害の教育なんかでも怖いのは、「褒めてあげる、褒めて伸ばす」というけれど、はたして本当のところを認めたり褒めたりしようとしているのかというところです。

 

湯川 : 本当でない認め方というと?

 

だって我々だって、おべっかなんか使われたら嫌でしょう?
それよりも、しんどいなかでも、ここはどうも本当じゃないか、とみていくこと。
たとえば「あなたが全部正しい」ということではなく、たとえ1%の正義しかないところでも、その1%の正義だけは大事だと認める。それが本物の認め方だよね。

そうやってひとつずつ、その子が持っている世界を認めながらいくといいわけです。

 

我々が関係の中に生きている以上、私と相手が一緒になった「私ら」で作っていくものがあるはずなんだよね。
そうやって認めあえたとき、お互いをわかりあっていけるようになる。

そのとき、さっきお話したような、第三者の「お墨付き」にあんまり寄っかかったり、きれいな言葉に乗せられて「良いもの」を求めたりすると、「生きること」そのものを見失って、生命力がなくなってしまいます。

 

 

「 生きるエネルギーに触れる 」

 

 

いまは、命や生きるということが、ずいぶん寂しく孤立させられたところに寄っていってるよね。
そういう個人だからこそますます、何かしらの同質性を求めて、ネットに集まる。

 

湯川: ネットでは趣味や意見などを切り口に、同質性の高い「仲間」を見つけやすいですよね、現実社会よりもずっと。

 

でも、そういう同質性じゃなくて、本物の命を求めていくことが必要なんだと思うんです。

リストカットなんかでも、人間同士が触れ合って生きはじめるとなくなっていくのが、ネットでつながっているあいだはひとりだから、リストカットを続けなきゃいけないのよ。ネット社会や、特別支援教育もですが、いまの権力によってなんとなく用意されるものに乗せられることには、そういう危うさがある。

 

もしも求めていく同質性というのがあるとすれば、生きる、生きようという、ものすごいエネルギーにおける同質性。
これは、人間の頭できれいに作られたものとは違うはずなんです。

 

 

「 『シャバ』で生きる 」

 

 

極端な話ですが、精神病院の隔離病棟に移されてようやく安心感を得るというひともいるわけです。
同じように、特別支援学校・学級で救われたというひともいるでしょう。

でも、「こうすればうまくいく」という話だけで、こうして我々が関係の中で生きていく場で苦労に耐えて何かを見いだしていこうとすることを全否定するのは、間違いです。

精神病院の話でいうと、自分から「治してほしい」という以上に、まわりの圧力で入院させられるのも問題。それはこどもの場合も同じです。

 

特別支援教育で、たとえ専門家はそれぞれ良いことをいろいろ言ってても、やっぱり先はしんどいのよ。

それよりも、こどもがいろんなことを体験して、いろいろと苦しみながらいく。そのとき「おお、こんなこともあるか」とか、「これはどうやって解決するかな?」とか、「こんな抜け道はないか」と親も一緒に考えて、まわりのみんなも考えるように巻き込んでいけるといいよね。

人間が関係の中で生きていく生き物である以上、いずれ出会う問題なわけです。
だったら、こども時代に親と一緒に出会えばいいじゃない。
そこで向き合わずに「特別」なんて分けてすり抜けて、大人になってからいきなり一人でかぶせられるこどもの方は、たいへんですよ。

 

湯川: みんなで生きていくやりかたは、みんなで生きていく場所でしか学べないということでしょうか。

 

そうです。そういう場を私は「シャバ」と呼ぶんですが、いまの日本では現在、普通教育の学校にしかないんだよね。

 

 

 

「 この子がいるとおもしろいことがあるなあ 」

 

 

 

その場所で、「この子がいるとおもしろいことがあるなあ」という見方を、周囲の大人がしてくれるかどうかで、本人の生きやすさは変わってきます。
「困ったなあ、この子にどう対応しようかなあ」という圧迫感からスタートすると、どうしてもしんどくなる。

心配しなくても、手はいろいろとあるはずなんです。そういう、いろいろなひとが混ざり合って人間や社会について生き合い学び合う場、未来に向かって開かれている場が、シャバなのですから。

 

湯川:  大人は、「シャバ」でこどもが体験することを、おもしろがりながら、一緒に考えていく……。その方が、ひとりで先回りしてやきもきするより、ずっと楽しそうですね。では、大人の出番は、いったいどういう時でしょう?

 

このインタビューの冒頭でもお話をしましたが、長い先のことは、誰にもわからないわけです。さらにはオーソリティーのいう「良いこと」も、どうもあやしくなってきた。そんなことは、本人がシャバで苦しんだりいろんな経験をしながら、自分で見いだしていけばいい。

とすると大人の出番は、生死という一回性にかかわる時になります。その場合は、何があろうと、正しいか間違っているかも超えて、動く。

そして大切なのはそのときに、なるべく「特別」ではなく、いつまでも場をつないでいくようにすることです。そんな「場つなぎ」が、良いのではないでしょうか。

 

湯川: あ、「シャバ」を「つなぐ」という意味での「場つなぎ」なのですね。

 

そうです。イデオロギー的に、ひとつの言葉や何かでパッと動くというのではなくて、そうやって一緒に生活していくなかから見つかっていくということしかないんだよね。

 

 

 

「 楽しみながら生きる 」

 

 

 

湯川: 今回のお話を伺って、もし発達障害と診断されたらむしろ「良かったね」、同質性で囲い込まれる狭いところに向かう息苦しいレースをやめるチャンスになって良かったかもよ、と言いたいくらいなのですが、怒られるかしら?

 

そんなことないんじゃない?

「ケミカルな同質性」に入れなかったことで、もう一度、いろいろと出会い直していくと思うんですよね。ただし、その出会い直していく場所が限られちゃったら、本当に外される。だから、いろんなところでいろんなひとと出会っていくことを考えた方が良いよね。

 

外されていく人間が増えていくということは、外していく側にとっては不利でもある。多数派が変わってくるわけだから。その多数派が、どんな力を持てるのかというふうに考えていった方がいいと思う。

いま我々が見失っているのは、人間の本当の多数派とは何かということです。それはやっぱり、生きるっていうことをごしょごしょもって動くひとたちの生命力だよね。その中に、いつも居続けることです。

 

 

湯川: ありがとうございました。先の見えないこれからの日々が、なんだか、かえって楽しくなってきました。

 

それは何より。これから生きていく時代を、少し楽しみながらいかないと、つまんないんじゃないかな。

 

 

※12/6(土) 14:30~ 石川憲彦先生とお話会
「こどもとの時間が楽しくなる3つのヒント」

イヤイヤ期、反抗期、思春期。登校拒否、発達障害、引きこもり……。

「こどもといるのがしんどい」と思うとき、こどもだって「親といるのがしんどい」と思っているかもしれません。

児童精神科医の石川憲彦さんは、生きづらさを抱えるこどもたちと向かいあって40年。

そこから見えてきた、親子の関係をつなぎなおす3つのヒントとは。

定員20名程度。畳のうえでのんびり、お話し会です。お子さま連れ、大歓迎!

<詳細>http://ow.ly/EkIYL

 

「楽しみながら生きる」-児童精神科医・石川憲彦さんインタビュー(4)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です