「いまは、人間を『分ける』圧力が高まっている」-そんな前回の話を受けて、石川憲彦さんへのインタビューは続きます。

 

 

石川憲彦さん

 

 

 

 「 本物と出会っていけるチャンス 」

 

湯川: 狭くなっていく社会のなかで、「ナチス的なもの」を避けるには、どうしたらよいのでしょう。

 

われわれ生きている側は、ケミカルな同質性に囲い込まれない、「生きる」というごじゃごじゃしたエネルギーでいくしかないですよね。

私たちが持っている「できなさ」とか「貧しさ」とか、自然の中のどうにもならない存在だというあたり、つまり良いも悪いも超えた「生きる」というエネルギーをそのものを、大事にしながらいけばいい。

生き物というもの、生きるということは、再生して生き続けることです。

人間が生きることを大事にすること、これは公理。数学もそうですが、説明も証明もできない。因果律などなしに、そうする以外にない。

 

ものすごいエネルギーという物理的な法則が働くなかで、化学反応が起きて、無機物から有機物ができて、何かの拍子でそこに生き物ができた。

生きるというのはだから、再生する「エネルギー」だよね、感覚的に言えば。「生気」なんて言いますしね。
これまでの工業化社会の「フィジカル」「ケミカル」の次に、私はそんな「バイオ」の時代が来るんじゃないかと楽しみにしているんですが。

 

 

湯川: 「Bio」となると、語源は「生命」ですね。たしかに最近、「バイオ」という言葉を耳にすることも増えてきました。

 

ただ、いまのところはまだ、「バイオ」とはいっても、実際にはバイオ・ケミストリーでしかないですよね。化学的な知識を使って、土で育てなくてもこんな肥料を使えば人工的に栽培できるとか、細胞に何かを加えたりとか。

私が言っているのは、もっと広い意味での「バイオ」なんです。

 

 

「 言語や『考える』は、 ほんの新しい脳の一部 」

 

 

ほ乳類の脳って、つくりは基本的には同じなのですよね。だけど、情報を扱うセンサーが違う。

こんな実験があります。中央を壁で仕切った相似形の部屋の、一方にサル、もう一方にイヌがいる。
真ん中の壁をボンと爆発させると、まずは動物としての判断が非常に出て、ばっと逃げる。しばらく部屋の隅のいちばん安全なところで身を隠して、どうやらだいじょうぶという感覚がすると、やがてそっと振り向いて、何が起こったかを確かめにくる。

そのとき、爆発の穴を、サルはじーっと目でのぞき込む。イヌはぐーっと鼻を近づける。
サルも犬も同じほ乳類なんだけども、情報をまとめたり活かしていくセンサーが動物ごとに進化した結果、いろいろ違うようになった。

 

人類は言語を使用して、思考や理性を発達させてきました。それが社会性を育むとともに、情報の受け取り方を特殊にしたわけですが、そんなもんは、ほんの新しい脳の一部なんですよ。

いま私たちがもっている考え方や因果律や言語的コミュニケーションは、たかだか数万年程度の話で、ほ乳類の2億年の歴史からいえばごく僅か。

新しい脳だから、まだ使い方も、どう使うかもわかってない。本当かどうか別にして、これは進化のなかで何かの突然変異が起こって腫瘍化したもの、つまり脳腫瘍だというフランスの学者もいるくらいです。

 

 

「 自然とは違うルール 」

 

 

我々が生きるうえでの「自明の感覚」にも、このふたつがあります。ひとつは自然が人間に与えたもの。どの動物も感じてきた自然とのルールで、これは公理のようなもの。疑えない。さきほどの話ですと、ほ乳類で基本的に共通する脳の部分での感覚ですね。

もうひとつが、人間の文化のごく一部分の言語だけ、脳でいうならごく新しい大脳新皮質というところが作り出したルール。
これも、我々は「自明」のものと感じてきた。

でもこのルールは、自然とは違う。本来、我々が生きやすいルールとは違うわけです。
いま崩壊しつつあるこの人間の勝手なルールが、最後のあがきで同質性を求めて排除しようとしているのが、発達障害です。

 

 

プレーリードッグじゃないけれど、人間も、集団で生きるようになってからは、外を警戒する人間と、内側の集団を守る人間と、ふたつの役割に分かれてやってきたんですよね。
6割くらいのひとは、内向きのなあなあが得意で、心がわかりあう。一方で外向きのひとは、自然との摂理に目が行ったり、敵を見張ったり。

その両方で集団を作ってきたのが、自然の敵を見失った瞬間に、内向きだけでやれると人間が思ってきていることの現れが、発達障害の排除です。

でも内向きのひとたちは、自分たちだけで、そこでのモードを楽しんでいるうちに、本当に危険なものが見えなくなってしまうかもしれないよね。

 

 

「 安心しているうち、 基本感覚をなくしていく 」

 

 

ちょうど私が地中海のマルタに二年間住んでいた時に、島で最初のスーパーマーケットができたんです。これは便利だと日本の感覚でチーズや果物なんか買って帰ったら、カビが生えてたり腐ったりしているのがある。よく見たら、いつまで有効だなんて賞味期限も押してないんだよね。

それもそのはずで、現地のひとは、スーパーでもちゃんと触ったりして自分で確かめて納得しないと買わない。

 

 

湯川: スペインでもそうでした! ブドウなんか実際にいくつか食べてましたよ。あと、カーナビにもなかなか従わなかったり、たしかに外部の「お墨付き」を、あまり信用しない印象があります。

 

 

ヨーロッパは異民族に支配されてきた歴史もあって、そういう「したたかさ」がある程度自分たちの中にあるけど、もともと長い鎖国も通じて同質性文化を高めてきた日本の場合、たしかにそこへの無批判さはあるよね。

それでハンコ押してもらったらそれで安心だと思ってるうちに、基本感覚をなくしていく。

 

年金なんかも同じですよね。ふつう、取っておいた宝物が、何十年も先まで有効だなんて話があるかしらという。食べ物だったら絶対に腐るしね? たまに干物ができるのを発見する楽しみはあるかもしれないけど(笑)

絶対保証つきのあんなものがあると思ってること自体が、考えてみたらおかしいわけです。

 

 

もともと貨幣というのもの自体が、「ハンコ」でしかない。

それでも物理的な時代は、まだ金(きん)と通貨が交換できた。金というのは結局、錬金術が及ばなかったもの、憧れです。あの光り輝く金と換えられるからと、こんな紙切れのお札も信じた。

その後、アメリカが金本位体制を絶って以降は、信用でドルを買ってきた。ところが、信用の本体自体が危うくなっている。いまの経済危機って、そういうことですよね。

権力側は、いくらでも増刷できる。でも破産するときは国家だけを破産させて自分は逃げられる。一方で私らは、信用するものがなくなっているから、不安。それがいまの状況です。

 

昔は「お上」がハンコをポンと押してくれるものは安心して食べられたし、使えた。さらには人間もそうだ、というのがありました。
ハンコというのは、国家権力による信用上の見せかけなわけです。JISなどの規格、年金や貨幣。今回のテーマの「普通」なんかもそうですよね。

でもいまは、オーソリティーも散らばってきた結果、なんだかわからない同質性になってきている。
もう、そういったものが通用しない時代が来ると、私なんかは思っています。

 

 

「 そろそろ、生身で感じないと 」

 

 

湯川: 先が見えないことへの不安を、生活全般についても、育児でも、いま抱えているひとは多いように思います。

 

先の時代への怖さというより、むしろ逆に、見せかけではない本物と出会っていけるチャンスだと思っていいのではないでしょうか。

いままで窮屈に動いてきた日本の社会から、みんなが乗せられている魔術的なものがぼろぼろと崩れる時代になりますよ。
いろんな人間がいろいろ生きているという意味での「自然」、そういう生きるエネルギーに戻っていく楽しさを発見できる時期が来ているんじゃないですかね。

 

そのためには、これまでやってきたような「良いもの探し」では、ちょっと難しいよね。
だってそれは、オーソリティーが用意した、見せかけの良いものなわけだから。 そろそろ、自分らの生身で感じないとね。

 

 

※12/6(土) 14:30~ 石川憲彦先生とお話会
「こどもとの時間が楽しくなる3つのヒント」

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児童精神科医の石川憲彦さんは、生きづらさを抱えるこどもたちと向かいあって40年。

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「そろそろ、生身で感じないと」-児童精神科医・石川憲彦さんインタビュー(3)

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