さすてなびりちー。この単語を初めて聞いたのは、たしか愛知万博がらみだった。スペイン・パビリオンの手伝いをしたときだから、開催前年の2004年。なので正確には、スペインで私が出会った単語は、現地の「ソステニビリダー」、なのだー。

それから10年。
あちこちでますますサステナビリティという言葉を聞く。持続可能性なんでしょ、なんかエコなんでしょ、ソトコトなんでしょコストコちゃうんでしょ。……つまり、ずーっと、意味がわからなかった。
それが、さっき、わかった。びっくりしたので書いておかせてね。

 

2014年、私は40歳です。コニチハ。27歳から持病のギックリ腰は、帰国後の合気道&三宅先生のゴッドハンドのおかげで程度が軽くなりつつも、振り返れば合気道の審査時にはだいたい倒れている……から、少なく年に春秋の2度は再発している。

39歳、はじめて借金をして、無鉄砲にリベルタ学舎をスタート。それが1年後、手首パカパカ・足首捻挫・右手指5針裂傷という、凄まじい身体ダメージとともに第一幕を閉じたのは既報の通り。(参考:「うまい話にゃウラがある」)

幸い、ゲリラになった私に、一緒にやりたいと言ってくれるひとがいっぱい増え、リベルタ学舎はより愉快に楽しい学びの場になりつつあります……っていう宣伝はいつもやってるからいいや。

 

決まった拠点をもたず山のすべてを住処とするゲリラに必要なのは、なにより体力だ。外で全力で燃え尽きたあとに、安心してぐっすり眠って体力を回復させる「おうちのフカフカの布団」はない。必要なのは、どこかで行き倒れたりしない、「自分と仲間の命を守る」ために一定以上のパフォーマンスを常に出せる体力だ。持続可能な、体力。

そして、ゲリラには、精神力も必要だ。「もう誰も愛さない」(吉田栄作)では生き延びるのは大変だ。「なにも言わずに逃げろ。ここは感づかれたらしい」と一握りの小麦を渡しながら教えてくれるひとが、やっぱり必要だ。だからって「もう誰でも愛す」でも、厳しい。すぐに「へえへえ。手配中のゲリラはここだっせ」と、一握りの小麦で売られてしまう。判断を放棄せず、でもしっかりと開いていく、そういうタフな精神力が必要だ。「もうムリかも~」と心が折れた時点で、それは死を意味する。

 

先月、急にマラソンを走ってみたいと思った。11月、畏友の慈憲一さんたちが主催する、エイドに灘の銘酒が並ぶ愉快な大人の「東神戸マラソン」がある。それへの参加をきっかけに、長距離を走れるような、いつでもひょいと身体が動くような、そんな身体と心になりたいなあと、なんだか急に切実に思ったのだった。

で、1日走ってみた。翌日、腰痛で寝込んだ。

「湯川さんは、打ち上げ花火でやっちゃうタイプだから言いますけど」 秋に出版予定の本について相談に行ったとき、合気道の師匠・内田先生が話してくれた。「打ち上げ花火はよくないですよ。それより、線香花火。日常のリズムのなかにしっかり取り込める範囲で、やることが大切です。無理はいけませんよ、無理は」

 

「サステナビリティ」は、行き過ぎた資本主義のとっぺきで、出てきた言葉のように感じている。

マーケットを拡大させる。壊して、つくる。共同体をバラバラにして、消費主体となる個人を立ち上げる。「マンマ・ミーア」を中心とする地中海岸カトリック的血縁共同体、あるいは「若衆宿」などに代表される日本のみだらでゆるーい村落共同体などは、プロテスタンティズムを土台に過剰に花開く資本主義を受け入れる段階で弱体化・解体された。

そのあとに登場するのは、アメリカのホームドラマのような、核家族。(アメリカのホームドラマの家庭って、おじいちゃんおばあちゃんと同居してたっけ?) 一家に一台、ピッカピカの、電話にテレビに車に冷蔵庫。やがてひとりに一部屋、すべてひとりに一台、通信端末はひとりに何台も……。

そうして先進国では、消費者の頭数が、頭打ちになった。ちなみに「資本=capital」の語源は、家畜の頭(cap=帽子でしょ?)。頭数が打ち止めとなれば、生産される「家畜の仔」も増えはしない。しかも人口はすでに減少段階にはいっている。大量のモノをつくるために破壊された自然環境のなか、汚染された水と食品に囲まれ、ひとりで、何台ものガジェットをもって立ち尽くすのが、いまの私たちの姿かもしれない。

 

そんな現代のこれからの生き方を指示するひとつの言葉が、「サステナビリティ」らしい。持続可能であること。語源はラテン語の「sustinēre」、「支える」という意味という。ちなみにスペイン語でひとつ遡ったsustentarという単語(※sostenibilidadは、王立アカデミー第二版から登場した新しい単語)をみると、第一義は、「誰かに必要な食物を与える」だった。もちろん、どこにも「成長」なんてない。

つまり、持続可能とはつまり、成長の止まった社会で、支え合いながら生きること。誰かが必要としているものを「どうぞ」と差し出しながら。

そしてこれは、40歳、成長の止まった私に、切実に響く言葉だった。これまで打ち上げ花火的、あるいはスクラップ&ビルド的に、心も身体も経済活動も行ってきた。もうそれではたちゆかない(と、他ならぬ心と身体が告げている)。
内田樹先生が大切に語る「ブリコルール」(「とりあえずの手持ちのもの」を用いる)、隈研吾の翻訳によるところの「だましだまし」、それらもたぶん、サステナビリティ。

 

我が輩はゲリラである。

ゲリラの目標は「生き延びる」であり、「仲間を生き延びさせる」。やがていつか胸の内に熱く燃えるこの理念を実現するために、まずは「だましだまし」「ありものの」身体を活かし、日々の生活のなかで折れない心を整え(「鍛える」では無理が生じるから壊れる、と、内田先生の言葉)、仲間に食べ物を差し出しなさい。そう、いま、みんなに言われている。

これでは、チェ・ゲバラというより、「穏やかなおばちゃん」やないか! と思うのだけど、考えたら、株価やなんかの記号で浮かれたりせず「それより、おかわりはもういいの?」と訊くおばちゃんこそが、とてもタフなゲリラになれるかもしれない。

 

40歳、おばちゃん、湯川カナ。基本的に予測不可能な場所に身を置き、環境のすべてを味方につけて生きる力を高めなければならないゲリラです。サステナビリティは、いまのこの私に切実な言葉だったのだ。と、2時間ほどまえに急に気がついたのでした。

まずは、お部屋を掃除するぞ。うむ。

 

 

(カナ式)チェ・ゲバラのサステナビリティ

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